「ヤッ」
竜に乗った青年は、短い掛け声とともに手綱を引いた。竜は主人の意をすばやく察し、後脚をはちきれんばかりに膨らませる。 主従が見つめる先、腰ほどの高さに伸びた草の合間からは、雌鹿が黒い瞳を用心深く光らせて様子をうかがっている。
「シッ」
青年が竜の硬い脇腹をブーツで蹴り上げると、竜は破裂する風船のような勢いで、一瞬にして獲物との距離を詰めた。雌鹿はあわてて反転するも、とき既に遅し。勢いよく閉じられた竜の大口が、雌鹿の細い足を無残に噛み砕いていた。
「よおし、上手いぞ、ロシナンテ」
ウォーターは相棒の背から降り、腰のナイフですばやく獲物をしめた。損傷は最小限、これなら毛皮も十分売り物になるだろう。
ゴロロロ、血のにおいを嗅いだロシナンテが物欲しそうにのどを鳴らした。
「わかってるよ、内臓とくず肉はお前にやるから。お前も捕まっている間、餌なんてもらってないんだろ?さあ、はやく家に帰ろう」
ウォーターはロシナンテの頭を軽く撫でてから、再びその背中に飛び乗った。ロシナンテは待ちきれないとでも言うように、主人の命令を待たず、家に向かってギャロップの速度で駆け出した。
女王暗殺未遂事件の裁判が終わってから数日が経っていた。
またこうしてのんびりと狩りができる日が来るとは。ウォーターは相棒の背に揺られ、感慨にふけった。ほんの十日ほどまでは当たり前だった、退屈な日常。しかしそれは、かけがえのない安息の日々でもあった。アヴィリオン王国に渦巻く陰謀、その一端に関わってしまっただけに、そのありがたみはウォーターにも痛いほどよくわかる。
幸い、ミセス・ハーヴェイは、裁判後の安全は自分の命に代えても保障すると約束してくれた。彼女がそこまでいうのならば、本当に安心していいのだろう。ウォーターは、このままもとの気ままな暮らしに戻ることができる。それは、どのような金銀財宝にも代えがたい恩賞のはずだ。
「……だけれど、なんでだろう」
ウォーターの心はしかし、耐え難い飢餓感を訴えていた。
確かに、怖い。ゲインズボロー司教、ハンフリー枢機卿、アヴィリオン王国の重鎮までもが加担する、巨大な陰謀。自分がその一端に関わってしまったことを考えると、今でも鳥肌が立つ。
それなのに。「事件」の際に垣間見た女王の姿を思い浮かべるたびに、ウォーターはいてもたってもいられない焦燥感に駆られていた。トマスの話によれば、宮中はもはや女王にとって敵地同然。そのような場所で、女王はどれだけ心細い思いをしていることか。
「お側にいたい。女王陛下の力になりたい」
何度考えてみても結局、ウォーターの思考はそこに行き着くのだった。
「グルルルルル……」
ウォーターの家の粗末なわらぶき屋根が見えてきたところで、ふいにロシナンテが足を止めた。
「あれ、どうした、ロシナンテ」
ウォーターがいぶかしんでいると、家のほうからくたびれた小男が走ってくるのが見えた。ウォーターの父親である。
「どこほっつき歩いてんだこの馬鹿息子! 宮廷の使いの方がお見えになっとるぞ!」
息を切らし、顔を真っ赤にしながら精一杯の声で怒鳴る父親。言われて眼を凝らせば、粗末な家の庭先に、似つかわしくない豪華な馬車が停められている。
「あっ……こら! わしを乗せていかんか!」
ウォーターはロシナンテの手綱を握りしめると、一も二もなく駆けていった。
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コツ、コツ、と机を指でたたく音がする。
ワインレッドのカーペット、手の込んだ調度、暗い色合いの宗教画。主の趣味の良さを感じさせる落ち着いた部屋も、今このときは非常な緊張感に包まれている。
「いけませんね、軽はずみな行動は」
小柄な老僧が、机の向かいに立つ五十がらみの脂ぎった男に語りかけた。まるで出来の悪い生徒をたしなめる、教師のような口ぶりである。
叱られた生徒、ゲインズボロー司教はしかし、憤懣やるかたないといった顔で老僧に食って掛かった。
「失礼ながら猊下、あなたのやり方は回りくどい。確かに失敗はしましたが……私は、自分の行動は間違っていないと考えています。この際、多少強引な手に訴えてでも、早急に女王陛下に退位していただくべきです」
「いけません」
老僧は静かに、はっきりと拒絶した。
「いいですか、ゲインズボロー君。女王陛下から王太子殿下への譲位は、出来うる限り自然に行われねばなりません。ことを荒立てては、他国に介入の隙を与えるだけですよ」
「しかし猊下。女官たちをはじめ、女王派の連中も、ここのところ不穏な動きをみせています。はやく我々の政治基盤を確固たるものにせぬことには……」
「ゲインズボロー君。我々は、権力が欲しくて女王を廃しようというのではありません。全ては、安定した王朝を立てて、強いアヴィリオンを実現するという目的のため。いたずらにことを荒立てては逆効果になります」
「猊下、確かに建前はそうですが……」
じろり、老僧はゲインズボロー司教をにらみつけた。
「ましてや、あの『忌むべき者』たちの力を借りようなど、言語道断です」
その言葉を聞いたとたん、ゲインズボローの赤ら顔からさっと血の気が引いた。まさか気付かれていたとは、その顔は言外に老僧の言葉を肯定している。
「女王暗殺未遂の裁判のとき、君は判事にまで手を回そうとしていたようですが……私が差し止めました。実行犯は、君が雇った『忌むべき者』たちなのでしょう?かばわれるのは、都合が悪いですからね。下手人はかならず捕縛します。よろしいですね?」
みるみる青ざめて滝のように汗を流すゲインズボロー。老僧は彼に対し、今度はやさしく微笑みかけた。
「安心しなさい。君まで罰する気はありません。まだ色々と働いてもらうこともありますし……いいやむしろ、あなたに感謝すべきかもしれませんね。『忌むべきもの』たちこそが、女王陛下暗殺未遂の真犯人……彼らは自ら汚名を着ることになったのですから。弾圧するには格好の口実でしょう」
老僧、ハンフリー枢機卿は、声を立てずに笑った。