「ベネディクトゥス・クィ・ベニトゥ・イン・ドミネ・デミニ」

 白い巻き毛のかつらをかぶった裁判長が宣言を終え、いよいよ裁判が開始された。女王側の弁士、ウォーター側の弁士、どちらも呪文のようなレギウム古典語を駆使して、のっけから激論を繰りひろげる。もちろん、古典語の教養のないウォーターは、完全に蚊帳の外である。

 トマスは、ウォーターのほうをちらりとみた。トマスは見学生の名目でこの場についてきているだけで、直接議論に参加する訳ではない。暇をもてあますくらいならウォーターに状況説明をする役目を買って出ようと思っていた。しかし、ウォーターはいまだ青ざめた顔で押し黙っている。こりゃあ、ちょっと脅かしすぎたかな、と気まずい思いでトマスが頭を掻いていると。

「……トマス。ちょっといいかい」

 意外にも、ウォーターが先に話しかけてきた。

「ゲインズボロー司教、といったっけ。その人は、今日ここに来ている?」

 トマスは一瞬どきりとした。ウォーターの声色は、彼との会話の中ではじめて聞いた、とても冷たいものだった。

「……ああ、陛下の名代だからね。ほら、向かいの長椅子の真ん中でふんぞり返っている奴さ」

 トマスは指差した先には、でっぷりと肥えた五十半ばの、いかにも俗っぽい僧侶が鎮座していた。脂ぎった顔で、精力的に弁士たちに指示を与えている。

「そうか、あれが……」

 ウォーターは射すくめるような視線でゲインズボロー司教をにらみつけた。

 実のところウォーターの沈黙と震えは、トマスの心配するように恐怖によるものではなかった。

 もちろんトマスから聞いた王宮の真実はショックだった。しかし今ウォーターの心を支配していたのは、ゲインズボロー司教と枢機卿に対する暗い怒り。止まらぬ震えは、武者震いだった。一体どこから沸いて出てくるものか、こんなにも乱暴な気持ちになるのは、彼にとって生まれて初めてのことであった。

 ふと気付いて横を見やると、トマスが心配そうにウォーターの顔を覗き込んでいた。

「ああ、ごめんよ。ずっと考え事をしていたんだ、君に教えてもらった事について、ね」

 ウォーターは、つとめて明るく言った。自分に芽生えたこの得体の知れない感情は、何故か隠さなければいけないもののような気がしていた。気付けば、知ってか知らずか、トマスもウォーターを問い詰めるようなことはせず、静かにその肩をぽん、と叩くのみだった。

 

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 午前中の議論は退屈でたまらなかったが、午後からの法廷はウォーターにとっても見ごたえのあるものとなった。

「わあ、あれは何をするんだい、トマス」

 ウォーターは、台車で運ばれてきた、黒っぽい板ごつごつしたを指さした。

「あれは竜の皮を板にはりつけたものだよ」

「そんなもの、何に使うんだい」

「君は、崖の上から吹き矢で竜を暴れさせたことになってる。でも考えてもみろよ、いしゆみの矢ですら弾くっていう竜の皮を、そんなもので通せるわけないだろう?それを今から実演してやろうってわけさ」

 トマスが指差す奥手のほうから猟師姿の男が現れ、手に持った吹き矢をその板に向かって吹いた。しかし矢は空しくも竜の皮の厚さに弾かれ、カラリと床にころがった。法廷にどよめきが起こる。

「はは、まあ、たまにはこういうパフォーマンスも重要ってわけさ」

 トマスは笑って言った。

「いんちきだ!」

「そこまでして犯罪者をかばうのか、馬鹿野郎!」

 と、そこで傍聴席の法服連中から野次が飛ぶ。

「彼らは一体何だい。なにか、最初から俺を目の敵にしているようだけど」

 ウォーターは眉をひそめて聞いた。

「彼らは、僕と同じティンタジェル大学の神学生さ。おおかた、ゲインズボロー司教に雇われたんだろう。司祭の職を用意してやるから、傍聴席で野次れってね。アヴィリオン語で何を言おうと、裁判記録には残らないからね」

 そこまで言ったところで、トマスはおもむろに立ち上がった。

「馬鹿丸出しはお前らだろう、法学科の落ちこぼれ諸君! 勉強もしないで副業に精を出してますと、教授に言いつけるぞ!」

 トマスの反撃、一転して法廷は失笑に包まれる。

「つまりは、こんなことを言っても問題ナシってわけ」

 トマスはウォーターにウインクをしてみせた。

 

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 西の空が赤く染まるころ、なんだかんだの議論もようやくのことで終着し(その間当のウォーターがやったことといえば、二、三の質問にノーと答えるだけだった)、判決が言い渡された。証拠不十分によりウォーターは無罪放免。トマスの予見どおりとはいえ、やはり実際に言い渡される段になると緊張するものである。この事件が大きな陰謀の一端であると思えばなおのこと。ウォーターは判決を聞いて、腰が抜けるほど安堵した。おめでとう、よく頑張ったな、と、弁士たちが口々に祝福の言葉を述べる。

「本当にありがとうございました。しかし、最後のあれはどうにかならなかったものでしょうか」

 顔を赤くして言うウォーターに、一同大笑いした。

 ウォーターの言う「あれ」とは、審議終盤に行われた証人喚問である。そこでは、ウォーターの隣人やよく行くパン屋の主人などが呼び出され、いかにウォーターが普段愚図な役立たずで、とても暗殺など大それたことの出来るような人柄ではないことを口々に並べ立てたのだった。ウォーターの過去の様々な行状が述べられるその間、法廷は原告側とウォーター本人を除き、笑いの渦につつまれていた。

「何をいってるんだ、あれが一番効いたんじゃあないか」

 肩を叩いて笑うのはトマスである。

「ともかく、これで私らの役目は終わりだ。後のことは、ハーヴェイ女史から何らかの連絡があるはずだ。ひとまずは、ご家族のこともも心配だろう、ここで解散としよう。ウォーター君は、家に帰ってゆっくりしなさい」

 年長の弁士の一言で、ウォーターたちは法廷から三々五々去っていった。遠目には、憎憎しげにこちらを睨む白い法服姿も見受けられる。女王側の弁士、ゲインズボロー司教の部下だろう。そういえば、司教の油顔が悔しさに歪むところを見るのをすっかり忘れていた、とウォーターは軽く舌打ちした。

 法廷の門を出ると、大きな二頭立て馬車が横付けされていた。御者がウォーターに気付き、下馬して出迎える。

「ウォーター殿ですね。貴方とご家族を無事家までお届けするよう、ハーヴェイ女官長から言い付かっております」

 馬車の中には、ウォーターの逮捕と同時に拘禁されていた彼の祖母と両親、兄、二人の妹がいた。この裁判でウォーターが有罪となれば、連座させられていた者たちである。ウォーターは皆と無事に再開できたことを喜びあった。

 がたん、ごとん、馬車が動き出す。窓の外では、トマスが手を振っていた。またな、と彼の口はそう言っているようにみえた。

 およそ1週間ぶりの我が家への帰り道。ウォーターは家族から色々問いただされたが、すべてぼんやりとした生返事ではぐらかしていた。本当のことを家族に言うわけにはいかない、という思いもある。

 しかし実のところ、ウォーターは裁判の前にミセス・ハーヴェイが言っていたことを思い出して、上の空だったのである。

「ウォーター・シェパード。女王陛下は、あなたに直接お礼がしたいとおっしゃっています」