青々とした草原に風が通り抜けると、牧草がざわめき、あたりに初夏の香りが立ち込めた。空高くには鷹が舞い、草を食む白い羊たち見下ろす。はるかに続く丘陵の先には、王都ティンタジェルの白い城壁が、かすかに見えている。

 いっとう高い崖の上、そこにうつぶせる少年がいた。やせっぽちの身体、ぼさぼさに伸びた癖の強い栗毛、汚れてほつれたぼろぼろのシャツは、お世辞にもどこかいいところのお坊ちゃんであるようには見えない。ただ、彼のとび色の両眼だけはガラス玉のように輝いて、崖下の隘路を行く一行を見つめていた。

「ほら、見ろよロシナンテ!」

 少年は隣に横たわる相棒の背を叩いた。

 砂埃を上げて眼下を行くのは、騎馬と徒歩、あわせて百ほどの兵士たち。そしてその中心に、金銀の装飾を施された四頭立ての馬車が走っていた。両脇を固める騎士が掲げる、林檎の樹をかたどった紋章が、馬車に乗っている人物の素性を物語っている。すなわち今上陛下、女王エヴァンジェリン二世その人。女王が大聖堂に礼拝に行くために、決まった時間にこの道を通ることを、少年は知っていた。彼はこの行列をこっそりと覗き見るために、何刻も前からこの見晴らしの良い高台で待ち伏せをしていたのだった。とはいえ、少年のお目当てはきらびやかな女王の馬車ではなかった。尊敬と羨望でまん丸に見開かれた瞳は、行列を先導する異形の騎兵の姿だけに向けられていた。

 「かっこいいなあ。それに強そうだ。お前なんかひとひねりだぞ、きっと」

 相棒は、退屈そうなあくびでそれに答えた。亜種とはいえ同じ種の獣でありながら、こちらはなんと暢気なことだろう。少年は、その間の抜けたしぐさに苦笑した。

「二十五……いや、三十フィートはあるかな。体重もお前の倍くらいはありそうだ。ああ、おれもいつか、あんなのに乗ってみたいよ」

 女王一行の先頭を行くのは、アヴィリオン王国のみに生息する戦闘用四足獣、竜である。細長い胴、鋭い爪のはえた強靭な手足、牛をも一飲みにする大顎をもつ巨獣。普段は温厚でのっそりとしているが、ひとたび騎手が鞭をくれると、肉食獣本来の俊敏さで敵を追い詰める悪魔の化身に早変わりする。硬いうろこでおおわれた外皮は下手な鎧よりも丈夫で、熟練の騎士でも刃を立てることは難しいと言われている。

 竜にまたがった騎士たちによる突撃は、勇猛な騎馬隊も堅固な方陣も容易に蹴散らす、戦場の華である。そして見る者を圧倒する竜騎兵の雄姿は、アヴィリオン国民の誇りである。となれば、夢見がちな少年たちがこれに憧れるのも、ごく自然の道理だろう。

 ありていに言えば、この貧しい少年、ウォーターもそのくちだ。彼が初めて竜を目にしたのは、幼い頃父親に手を引かれて行った王都のパレードのときだった。銀色に輝く鎧をまとい、神々しいほどの威厳をふりまく竜騎兵隊の行進は、物心ついたばかりのウォーターの心をわしづかみにして、今もなお離さないでいた。

しかし世の中というものは、とかく現実的にできている。顔つきと体格のせいで幼く見えるが、ウォーターも今年で十七になる。もはや身分の違いというものがわからぬ歳でもなく、かなわぬ夢があることも知っている。ただ、遠目に眺めるだけならばちもあたらぬだろうと、今もこうして野良仕事を中断し、羊追い用の小型竜に乗って見物に来ているのだった。

「……いっそ、このまま行列についていって、王都にでも出ようかな」

 ウォーターは、華やかな行列と小作農である自らの境遇を比べて、深くため息をついた。このまま一生しがない小作人として、麦を育て、羊を追って暮らすのか。収穫の半ば以上を税として取られ、食うや食わずの生活を死ぬまで続けるのか。……おそらくは、そうなるだろう。この世にはいかんともしがたい生まれの差というものがある。王の子が王になり、職人の子が職人になるように、小作の子はその血が途絶えるまで、未来永劫に小作なのだ。

今の生活を投げ出して、王都に出さえすれば、人夫なり給仕なりの働き口はあるかもしれない。小作農と大して変わりのない境遇ではあるが、何かの拍子に一発逆転の奇跡が起こる確率、貧しい生活から抜け出せる可能性は少しだけ高いかもしれない。

「……そんなこと、出来るはずもないさ。ロシナンテ、もう帰ろう」

 ウォーターは相棒の背にまたがると、手馴れた手綱さばきで体をひるがえし、女王の行列に背を向けた。意気地がない、とばかりは言えない、やむにやまれぬ事情がある。彼のまたがる竜は、地主からの借り物。彼が飼う羊も、麦畑も借り物。言ってみればウォーターの身柄そのものが地主の所有物のようなものだった。主人の物を盗めば腕を斬られる。逃げようとすれば脚を斬られる。万が一うまく逃げおおせても、そのときは家族に累が及ぶだろう。小作の子は生まれついたときから、見えない鎖で家畜のように繋がれているのである。

 女王陛下の竜騎兵。ああ、いいよな、とウォーターがつぶやいたそのとき、背後から耳をつんざく強烈な音が襲った。