「何だ!?」
崖下を振り返り、ウォーターは絶句した。
それは谷間にこだました竜の遠吠え、鎧がかさなる金属音と、乾いたマスケットの発砲音。そして竜の巨体に踏み潰される兵士の断末魔。ああ、そこには信じがたい光景が広がっていた。さきほどまで粛々と列を先導していた竜が、今は雄たけびをあげながら、口から泡をふき、体を振り乱して大暴れしていた。背にまたがった騎手が懸命に手綱を引いても一向に大人しくなる気配はなく、止めに入った衛兵が幾人も踏み潰されていく。
空を飛び火を吐く、神話の悪竜もかくや。
さらに竜は大きくのけぞって騎手を振り落とし、怒涛のごとく突進をはじめた。向かう先は列の中心、ひときわ目立つ女王の馬車。立ち向かう歩兵は片端から槍を折られて蹴散らされ、銃兵は二射目の装填に手間取っている間に踏み潰された。
一騎の騎兵は歩兵五人に匹敵するといわれるが、竜騎兵をとめるには一体何人の兵士が必要なのだろうか。まして、この混乱のさなかである。竜はまた新たにひとかたまりの兵士を跳ね上げて、みるみるうちに馬車へと迫っていった。
「キシャアアア!」
血がたぎったのか、ロシナンテが眼下の惨状に呼応して吼えた。呆けていたウォーターも、相棒の一声でようやく目を覚ます。夢ではない。妄想ではない。この地獄は、確かに今自分の目の前に存在していて、暴れ狂う地獄の使いのごとき巨竜は、こうしている間にも女王の馬車を爪にかけようと猛進している。
「ろ、ロシナンテ! ……う……うわあああああ!」
それは雄たけびなのか、悲鳴なのか。生身の兵士では相手にならない暴君。止められるとするならば、同じ竜……。都合よくこの場に居合わせた、一頭の竜と、その乗り手。
考えるよりも先に、ウォーターの手が動いていた。主人の許しを得たロシナンテが、はじけるように飛び出す。切り立った崖にひるむことなく、目にもとまらぬ速さで垂直の岩肌を這う。
ウォーターは頭を低くして必死で愛竜の背にしがみつきながら、どうにか薄目をあけた。戦竜はこちらに横腹を向けて突き進む。体が大きい分だけ、ロシナンテよりも鈍い。かちあうのはおそらく、馬車の直前。
「どけえ!」
ウォーターが叫ぶと、衛兵たちはおののいて、わけもわからず道をあけた。下り坂でついたスピードを利して、疾駆する。戦竜は今まさに唸りをあげ、女王の馬車に体当たりをかまそうとしていた。ロシナンテは所詮小型の亜竜であるから、まともに重装備の竜にぶつかれば勝ち目はない。だからせめても、捨て身の覚悟で、やつの突進の方向だけでも変えられれば。
考える間もなく、勝負は一瞬。ドォン、と腹に響く鈍い音。
「ギェェェエエエ!」
白い腹を向けて横たわったのは、意外にも巨大な戦竜のほうだった。体格の差を逆手に取って、ロシナンテが平たい頭を戦竜の下に潜り込ませて、足をからめとったのだ。それは偶然か直感か、いずれにせよ奇跡的にうまれた好機だった。
「今だ、はやく!」
鎧の重みで寝返りをうてない竜の柔腹に、いまだおっかなびっくりの衛兵たちの槍が、幾本も突き刺さる。ぎゃあぎゃあと耳に残る悲痛な断末魔を残して、あわれ戦竜は息絶えた。
……ああ、やった、のか。
ウォーターは息の荒いロシナンテの背にへたり込んだ。足元には、つい先ほどまで羨望のまなざしをむけていた戦竜が、腹からどくどくと血を流して倒れている。騎士物語に出てくる、化物の最期の場面のようで、まるで現実味がない。しかもその化け物を倒した騎士が自分であるとは、もはや悪い冗談である。そこかしこに鎧や、武器や、人の破片だけが生々しい。その不吉で凄惨な光景に、ウォーターはただただ身がすくむばかりだった。
いいや、どうやらこの場にいる者すべてがそうらしい。どうにか生き残った衛兵たちもまた惨劇の余韻にひきずられ、肝心の女王の安否を確認をしようとする者もいない……。
そうだ、女王は! ウォーターはあわててあたりを見回して、青ざめた。先の戦闘で、気づかぬうちに巻き添えにしてしまったのか。あろうことか女王の四頭立て馬車は横転し、壁や天井が跡形もなく崩れ落ちていた。
しまった! ウォーターの頭は真っ白になった。もしも女王が、馬車の中で怪我でもしていたら。いいや、現状からして、もっと最悪の……。ばくばくと、心臓が鳴る。ああ、これは、おれのせいだ。
「被告人、ウォーター。女王陛下殺害の罪により、死罪!」
死罪、死罪、死罪。そんな言葉が、耳鳴りのように頭を巡った。死にそうな顔の主を見上げて、ロシナンテが心配そうに喉を鳴らす。
「じょ、女王陛下をお助けしろ!」
そこでようやく自我を取り戻した衛兵たちが、あわてて駆けだした。馬車はすでに巨大な瓦礫の山と化し、目を凝らせばがれきの隙間から、白いレース編みのドレスのすそがちらとはみ出している……。
しかし彼らが馬車にたどり着く前に、ガラリ、と瓦礫の山が崩れた。そして瓦礫を押しのけてあらわれた、背の高い女官。その腕には、白いドレスに包まれた細身の体が抱きかかえられていた。
「はやく御手当てを! 陛下はご無事です!」
女官が通る声で叫ぶと、兵士たちの間から大きな歓声があがった。安堵のあまり、その場にへたり込む者もあった。もし女王の身に何かあれば、彼らもまた責任を負う立場である。
「おおおおおおおお!」
ウォーターもひときわ大きい歓声を上げた。よかった、本当によかった。ばし、ばしとロシナンテの背中を叩いて喜びをあらわした……かと思いきや、その一瞬後、彼は再び硬直していた。体に電撃が走ったような感覚を覚え、動けなくなったのだ。心臓も、先ほどまでよりもさらにはやく、痛みを覚えるほどに脈打っている。全身から汗が噴出し、手足はがくがくとふるえる。そしてその両目は、女官の腕に抱かれる少女から離れない。折れそうに細い腕、白磁のように透き通る肌、丁寧に編みこまれたプラチナブロンドの髪。
そうか、これが女王。ウォーターは、遅まきながら理解した。齢十七にしてこの国の民を統べる、この国で最も高貴な女性。
恐れ多い。ウォーターは目を伏せようとした。しかし視線は動かない。目を閉じようとした。まぶたが張り付いたように動かない。ひとりウォーターの理性だけが、主人に対して冷静に警鐘を鳴らしていた。危険だウォーター、お前は何を考えているのだ、と。
女王の薄いまぶたがひらき、水晶細工のように透き通る青い瞳と、ウォーターのとび色の瞳が交錯した。
女王の衛兵たちが、崖の上から現れた不審者を竜の背から引き摺り下ろしたのは、そのすぐ後のことだった。